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葦の会

下生聖体宗教に入教して・・・

                                   古川 スズ子

私は、聖心教会のお話しを聞くまでは、

『我々人間の手に届かないところにおられる「見えない神」』の

存在を信じていました。

下生聖体(げしょうせいたい)宗教において、

「神が肉体を持っておられる、神に遭える」ということを聞いて、

肉体を持っておられる神様に遭ってみたいと思いました。

入教してお姿を拝した時、「この方はなぜ神なのか」

「神はなぜ肉体が必要なのか」、なかなか理解できませんでした。


神は万能ではないのか?

神になぜ肉体が必要なのか?

信仰は宗教家を通じてするべきものではないのか!!

次々と自分の中に、「信仰とはこうである!」という考えが

浮かんできました。

下生聖体(げしょうせいたい)宗教において、「信仰」は、

『神と人とが直接出遭うこと』だと教えられました。

下生聖体(げしょうせいたい)は、肉体を持たれた神で、肉体の中に

神霊を宿しているとおっしゃっています。

人間は、肉体の中に人霊を宿している輪廻転生身であると

教えられました。

神霊下生身(下生聖体)(げしょうせいたい)と輪廻転生身との出遭いが、

神と人とが出遭うことの出来る唯一つの方法であると

おっしゃっています。


下生聖体(げしょうせいたい)宗教では、『聖霊拝戴(せいれいはいたい)』と

真正聖書(しんせいせいしょ)』が存在します。

これは、下生聖体が我々神聖家族に授けてくださるのもです。

この二つを修することによって、下生聖体宗教について

理解することが出来るようになりました。

私にとって一番理解が難しいと感じたことは、

下生聖体(げしょうせいたい)と宗教家の違いでした。

神の救いと教えは、宗教家を通じて聞くものと思って

信じてきたものがとこごとく否定されることに、

非常に抵抗がありましたが、抵抗する心を超えて、

下生聖体(げしょうせいたい)のコトバが私の中に入ってきました。

何か不思議なものを感じました。

普通、否定されたり、抵抗すれば、その言葉は入ってこない

はずなのに、私の抵抗する心を超えて入ってくる

下生聖体(げしょうせいたい)のコトバの威力のすごさを痛感しました。

また、下生聖体(げしょうせいたい)(神)自身のことについて、

救いについて教えについて、教えられ、

一般にある宗教と下生聖体(げしょうせいたい)宗教とは根本的成立

そのものの違いがあると教えられました。

今私は、下生聖体(げしょうせいたい)(宗教)に出遭えたことへの

感謝でいっぱいです。

神(下生聖体)(げしょうせいたい)に出遭えたこと、

神のコトバ(真正聖書)(しんせいせいしょ)を戴けたこと、

聖霊を拝戴出来たこと、真実の信仰に出遭えたことを、

一人でも多くの人々に伝えたいと決心しています。








下生聖体と出遭って・・・

                                   南野 千鶴

私が幼いころ、母親が色々な宗教を遍歴していた記憶があります。

ですから、両親が聖心教会へ入教した時も、

何の違和感もありませんでした。

これまでと同じような宗教への入教だと思っていました。


しかし、幼いながらに何かこれまではと違うものを感じていました。

毎週日曜日に教会へ行き、

聖地を踏ませていただくことに自然と「歓び」が湧いてきて、

同じくらいの子ども達が多くいたこともあって、

教会へ行くのが楽しみでした。


その時は、その「歓び」が何なのかは知る由もありませんでした。

幼いながらにも、


  「神様はどこかにいるだろう・・・」

  「どこにいるのだろうか・・・」


という思いはありました。

その後、長い年月が経ち、あの時の「歓び」が何であったのかを

知る事ができました。

それは、実在の『神霊との出遭い』をしていた自分自身の

「生命の歓び」であったのです。

聖心教会は、これまでの「神に対する観念」を

180度くつがえす方法によって創始樹立された宗教だったのです。

架空、想像の神から、誰にでもその姿を見ることもできる、

その声を聴く事もできる、そしてそのコトバを読むこともできる、

すべての人たちが、求める気持ちさえあれば

平等に神霊の救いを戴くことができるように、

神霊の人間に対する大いなる愛と誠と慈悲によって

樹立された宗教だったのです。


私が親に連れられて入教した宗教は、前代未聞、

空前絶後のとんでもなく深刻、重大な宗教だったのです。


そのことを自覚させていただいたのは、

『聖霊拝戴
(せいれいはいたい)

『真正聖書
(しんせいせいしょ)』によるお導きでした。

幼いながらに神に対する観念というものに

問題があったことを知ることができました。


神霊の人間に対する大いなる愛と誠と慈悲について、

少し詳しく自身の理解した範囲内でお伝えします。



 神霊は本来、人間は具体的にその姿を観る事も、

その声を聴く事もできない存在なのですが、そのような状態では

人間は永久に神と人との仲介者である特定の人、

特別な修行をした人によって神を求めるすべての人たちは

神の意思、神の言葉を聞く以外に方法が無いと思っていました。


私自身も、両親も、友人も、全ての人たちがそうだったのです。

 ところが、聖心教会は違っていたのです。

ここが、これまでの神の観念が180度転回するところです。

180度転回ということは、これまで見えなかった神が

見える神へとかわったということです。



 聖心教会は、『下生聖体
(げしょうせいたい)』によって

創始樹立されました。


『下生聖体
(げしょうせいたい)

初めて聴く言葉だと思います。

私たちの信仰の対象は『下生聖体
(げしょうせいたい)』です。

実際にその姿を見る事も、その声を聴く事も、

そのコトバを読む事もできる、『人類史上初めてこの地上に、

人間と同じ肉体を持って生まれてこられた神さま』です。

到底信じることは出来ないと思います。

私自身もそうでした。

神さまが実際に人間と同じ肉体を持たれ、

この地上に存在されることは、とてもとても信じ難いことでした。


しかし、神に対する観念が薄紙を剥ぐように変わっていったのです。

それは、『聖霊拝戴
(せいれいはいたい)

『真正聖書
(しんせいせいしょ)』による

お導きがあったからなのです。


   ―――――――――――――――――――――

   『聖霊拝戴
(せいれいはいたい)

   神霊が人間と同じ肉体を持たれることによって発生する、

   神霊と肉体の落差によるエネルギーである

   聖霊の波動を戴く修行です。

   指示された場所、時間、姿勢、念を以て望みます。



   『真正聖書
(しんせいせいしょ)

    神霊と肉体の落差の生命体であられる

   下生聖体
(げしょうせいたい)自らが執筆された書物です。

    神霊と肉体の落差によって発生するエネルギーである

   聖霊の波動を文字にかえられた書物です。

    真正聖書に拠って、私たちは神のコトバを実際に読んで

   理解することが可能になりました。

   それによって、これまでの神に対する誤解、宗教上の

   あらゆる真実を知る事が可能になったのです。

   ――――――――――――――――――――――

私自身、長い年月をかけて、

神の観念を払拭する努力をしてきました。

これからもその努力をしながら、

信仰生活に精進していきたいと思っています。

現在は『下生聖体
(げしょうせいたい)』は御昇天され、

経典聖書時代となっていますが、

『聖霊拝戴
(せいれいはいたい)』・

『真正聖書
(しんせいせいしょ)』は

『下生聖体
(げしょうせいたい)』が生涯をかけて

後代の人たちのために遺されています。


実際に信仰されている人、或いは宗教に関心のある人、

私はそのような人たちに『下生聖体
(げしょうせいたい)』のことを

お伝えしたいと思っています。