「下生聖体」と出遭って・・・

南野 千鶴

 私が幼いころ、母親が色々な宗教を遍歴していた記憶があります。
ですから、両親が聖心教会へ入教した時も、何の違和感もありませんでした。これまでと同じような宗教への入教だと思っていました。

しかし、幼いながらに何かこれまではと違うものを感じていました。

毎週日曜日に教会へ行き、聖地を踏ませていただくことに自然と「歓び」が湧いてきて、同じくらいの子ども達が多くいたこともあって、教会へ行くのが楽しみでした。
その時は、その「歓び」が何なのかは知る由もありませんでした。

幼いながらにも、

「神様はどこかにいるだろう・・・」

「どこにいるのだろうか・・・」

という思いはありました。


 その後、長い年月が経ち、あの時の「歓び」が何であったのかを知る事ができました。
それは、実在の『神霊との出遭い』をしていた自分自身の「生命の歓び」であったのです。

聖心教会は、これまでの「神に対する観念」を180度くつがえす方法によって創始樹立された宗教だったのです。

 架空、想像の神から、誰にでもその姿を見ることもできる、その声を聴く事もできる、そしてそのコトバを読むこともできる、すべての人たちが、求める気持ちさえあれば平等に神霊の救いを戴くことができるように、神霊の人間に対する大いなる愛と誠と慈悲によって樹立された宗教だったのです。

私が親に連れられて入教した宗教は、前代未聞、空前絶後のとんでもなく深刻、重大な宗教だったのです。

そのことを自覚させていただいたのは、『聖霊拝戴(せいれいはいたい)』『真正聖書(しんせいせいしょ)』によるお導きでした。
幼いながらに神に対する観念というものに問題があったことを知ることができました。



神霊の人間に対する大いなる愛と誠と慈悲について、少し詳しく自身の理解した範囲内でお伝えします。


 神霊は本来、人間は具体的にその姿を観る事も、その声を聴く事もできない存在なのですが、そのような状態では人間は永久に神と人との仲介者である特定の人、特別な修行をした人によって神を求めるすべての人たちは神の意思、神の言葉を聞く以外に方法が無いと思っていました。
私自身も、両親も、友人も、全ての人たちがそうだったのです。

 ところが、聖心教会は違っていたのです。ここが、これまでの神の観念が180度転回するところです。
180度転回ということは、これまで見えなかった神が見える神へとかわったということです。


 聖心教会は、『下生聖体(げしょうせいたい)』によって創始樹立されました

下生聖体(げしょうせいたい)』

初めて聴く言葉だと思います。

私たちの信仰の対象は『下生聖体(げしょうせいたい)』です

実際にその姿を見る事も、その声を聴く事も、そのコトバを読む事もできる、『人類史上初めてこの地上に、人間と同じ肉体を持って生まれてこられた神さま』です。

到底信じることは出来ないと思います。
私自身もそうでした。
神さまが実際に人間と同じ肉体を持たれ、この地上に存在されることは、とてもとても信じ難いことでした。
しかし、神に対する観念が薄紙を剥ぐように変わっていったのです。
それは、『聖霊拝戴(せいれいはいたい)』『真正聖書(しんせいせいしょ)』によるお導きがあったからなのです。

 


『聖霊拝戴(せいれいはいたい)』

 神霊が人間と同じ肉体を持たれることによって発生する、神霊と肉体の落差によるエネルギーである聖霊の波動を戴く修行です。指示された場所、時間、姿勢、念を以て望みます。



『真正聖書(しんせいせいしょ)』

 神霊と肉体の落差の生命体であられる下生聖体(げしょうせいたい)自らが執筆された書物です。
 神霊と肉体の落差によって発生するエネルギーである聖霊の波動を文字にかえられた書物です。
 真正聖書に拠って、私たちは神のコトバを実際に読んで理解することが可能になりました。

それによって、これまでの神に対する誤解、宗教上のあらゆる真実を知る事が可能になったのです。




 私自身、長い年月をかけて、神の観念を払拭する努力をしてきました。
これからもその努力をしながら、信仰生活に精進していきたいと思っています。

現在は『下生聖体(げしょうせいたい)』は御昇天され、経典聖書時代となっていますが、『聖霊拝戴』『真正聖書』は『下生聖体』が生涯をかけて後代の人たちのために遺されています

実際に信仰されている人、或いは宗教に関心のある人、私はそのような人たちに、『下生聖体(げしょうせいたい)』の事をお伝えしたいと思っています。