「下生聖体」と出遭って・・・
南野 千鶴
私が幼いころ、母親が色々な宗教を遍歴していた記憶があります。
ですから、両親が聖心教会へ入教した時も、何の違和感もありませんでした。これまでと同じような宗教への入教だと思っていました。
しかし、幼いながらに何かこれまではと違うものを感じていました。
毎週日曜日に教会へ行き、聖地を踏ませていただくことに自然と「歓び」が湧いてきて、同じくらいの子ども達が多くいたこともあって、教会へ行くのが楽しみでした。
その時は、その「歓び」が何なのかは知る由もありませんでした。
幼いながらにも、
「神様はどこかにいるだろう・・・」
「どこにいるのだろうか・・・」
という思いはありました。
その後、長い年月が経ち、あの時の「歓び」が何であったのかを知る事ができました。
それは、実在の『神霊との出遭い』をしていた自分自身の「生命の歓び」であったのです。
聖心教会は、これまでの「神に対する観念」を180度くつがえす方法によって創始樹立された宗教だったのです。
架空、想像の神から、誰にでもその姿を見ることもできる、その声を聴く事もできる、そしてそのコトバを読むこともできる、すべての人たちが、求める気持ちさえあれば平等に神霊の救いを戴くことができるように、神霊の人間に対する大いなる愛と誠と慈悲によって樹立された宗教だったのです。
私が親に連れられて入教した宗教は、前代未聞、空前絶後のとんでもなく深刻、重大な宗教だったのです。
そのことを自覚させていただいたのは、『聖霊拝戴(せいれいはいたい)』『真正聖書(しんせいせいしょ)』によるお導きでした。
幼いながらに神に対する観念というものに問題があったことを知ることができました。