目に見える神なんて、ありえない――私の信仰が変わった日

東 みどり

                                 
 私が母に連れられて教会の門を叩いたのは、今から50数年前のことでした。
 聖主様(下生聖体)を「この方が本当の神様だよ」と紹介されたとき、
 私は思わず強い反発を感じました。
 なぜなら私は、誰に教わったわけでもないのに、こう思って生きてきたからです。
――「神様は目に見えず、奥深い山にこもって仙人のように暮らし、私たち人間を上から監視している」
   だから悪いことはできない、と。
 そんな私にとって、
「神が私と同じ“肉体”を持っておられる」
という話は到底受け入れがたいものでした。
 「そんなバカな話があるはずがない」――それが率直な心の声でした。
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■ 反発のまま修行に入り、聞いた“神のコトバ”
 その反発を抱えたまま、私は初めての霊念体三聖宝修行に入りました。
 夜になると、集まった神聖家族(信者)の前で、
 **神ご自身が直接に法を説かれる時間(聖法慈雨)**がありました。
 でも、何もかも初めてのことばかりで、語られる御コトバはほとんど理解できませんでした。
 中でも心に引っかかったのは、次の一言でした。
 「人間には本当の意味で、愛も誠も無い」
 私はまたしても反発を覚えました。
 なぜなら、私も人並みに、親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、友人の愛――
 そうした人間の愛を体験してきたからです。
 **「そんなことがあるはずない」**と思いました。
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■ それでも“コトバ”は心に入り込んできた
 しかし、毎晩の聖法慈雨を重ねるうちに、
私の心は少しずつ、少しずつ変わっていきました。
 神は、人間の生命のために“死の犠牲”さえもいとわない――
 そのような、神からの一方的な深い愛があることを知ったのです。
 そして次第に、私がこれまで経験してきた“人間の愛”と、
 神の愛とはまったく次元が違うということを体験的に理解するようになりました。
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■ 神の愛に出遭えた、かけがえのない果報
 私のような何の取り柄もない存在が、
 神霊界を離れ、肉体に宿ってこの地上に降臨された、
 唯一の神霊――下生聖体に出遭えたこと。
 それは、人間の想像や理解の限界を超えた奇蹟でした。
 神が人間と同じく受胎し、
 人霊ではなく神霊をその肉体に宿されるという、
 この地上で過去にも未来にも存在しえない出来事に、私は生きて遭遇させていただいたのです。
 その果報を思うと、天にも昇るような気持ちでした。
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■ 人間の限界を超えて始まった、神との出遭いの宗教
 まさに、人間の思考や理性の限界を超えた場所から、下生聖体宗教は始まったのです。
 この地上における、陰陽双身の下生聖体在世時代という神の奇蹟がなければ、
 人類は永久に**「神を識る機会」**を持つことはできなかったでしょう。