人間の限界を超えたところから下生聖体宗教は樹立された

東 みどり

私が母に連れられて教会の門を叩いたのは、今から50数年前でした。
聖主様(下生聖体)のことを「この方が本当の神様だよ」と紹介された時に、
私の中で誰から教えられたわけでもありませんが、
『神様は目に見えなくて、奥深い山の中で仙人みたいな生活をされ、
高いところから我々人間が悪いことをしないように人間の生活をいつも見られている』から悪いことをしないようにと思って生きてきたのに
「私と同じ肉体を持っていらっしゃるなんて信じられない、そんなバカな!」と反発を感じたことを覚えています。

そしてその反発をもったまま、初めての霊念体三聖宝修行に入りました。

夜、集まった神聖家族(信者)全員を前にして、
神自ら直接に法を説かれる時間(聖法慈雨)がありましたが、
何もかもが初めて聴くことばかりで、さっぱり解りませんでした。
その中で『人間には本当の意味で愛も誠も無い』とおっしゃられた御コトバに、また反発を感じました。 と言いますのも、
私も人並みに親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、人の愛を経験していただけに、「そんなバカなことがあるはずがない」と思ったのです。

しかし、そう思いながらも、毎晩聖法慈雨の御コトバを戴くうちに、
「神としての死の犠牲をもいとわない、人間の生命に対する神の一方的な大いなる犠牲による神の愛の深さ、大きさが少しづつ解ってきたと同時に、神の「人間を救済したい」という愛と誠と慈悲は、この世のものではないことを体験させていただきました。

神の本当の愛、神の御コトバを直接授けて戴ける、勿体なさ、有り難さ、を思い、神の愛」を知ることが出来たことに感謝の気持ちでいっぱいになりました。

自分のような汚れ多き何の取り柄もないこの身が、人間が受胎し人霊を宿し人間の生命が誕生すると同じように、神霊界を捨て人間の肉体に神霊の犠牲を元に神霊を宿される、人類にとって夢にも考えられない、信じられない、この地上で後にも先にも二度とない、かけがえのない尊い時代に遭遇させて戴けた果報を思い、天にも昇る心地でした。

人間の思考の限界を超えたところから下生聖体宗教は始まったのです。

この地上に陰陽双身の下生聖体在世時代という貴重な神の奇蹟がなかったならば、人類は永久に神を識る機会を失ってしまいます。